「初詣なんて意味がない」
正月、わざわざ車で混んでいる道路を運転したり、
人混みのなかで窮屈な思いをすると、
こんなふうに考えて
この問題について議論をすると、
「そもそも神様はいるのかいないのか?」
という部分に焦点が当たり勝ちですよね。
しかし個人的には、
そこはあまり重要でないと考えてます。
この記事ではその理由や、
「そもそも初詣という風習はどこから来ているのか」
「結局、意味はあると思っているのかないと思っているのか」
などを綴っていきます。
私(筆者)の基本的な意見
まず結論からいきましょう。
私の意見は、
「初詣という行為自体には意味がない」
「しかしその人次第で意味を持つ”場合もある”」
というものです。
また広い視野(経済活性化や籠もりがちな冬に外出するキッカケ)で見れば、
意味があるといえるでしょう。
因みに私は無神論者というわけではありません。
特定の宗教を信仰してはいませんが、
”密かに人類を見守るor管理している存在”がいる可能性は否定出来ませんし、
それを神様と呼ぶのが間違いとも言い切れません。
しかし最初に少し触れたとおり、
「初詣の意味があるかどうかに、
神様の有無は関係ない」
と考えています。
次の項目では、その理由を詳しく解説していきましょう。
初詣自体には意味がないと考える理由
初詣という行為自体には意味がない…
私がそう考える理由を紹介します。
★そもそも「初詣」という風習に疑問
初詣とは簡単にいうと、
神様に「去年は守っていただきありがとうございました」と伝える行事です。
本来、お願い事をする行事ではありませんが、
「今年もよろしくお願いします」という形で、
家内安全や商売繁盛、志望校合格について、祈る方も少なくないでしょう。
初詣に対して「古い風習」というイメージがある人は、
多いんじゃないかと思います。
しかし実はそう長く続いている風習ではないんです。
初詣が一般的になったのは、この150年ほどの話。
きっかけは、汽車の搭乗によって交通事情が改善されたこと。
これによって、参拝しやすくなったのはもちろんのこと、
民衆の間に、
「正月に汽車で神社などにお参りに行くのって、オシャレだ!」
という意識が広がりました。
神社側からしても、
新年からたくさんの人たちが訪れて、
お賽銭をしたり、お守りを買って行ってくれることは、
非常に有難いですよね。
これらを踏まえてみると初詣なんていうのは、
「新年にオシャレして出掛ける理由、騒ぐ理由が欲しい人たちの思い」と
「神社側の経済的な思惑」
が噛み合った結果、
瞬く間に根付いていった新イベント
しかもこのイベント…
もともと日本にあったお正月の風習とちょっと合わないんです。
このことについても、詳しく解説していきます。
★もともとあった正月の過ごし方との矛盾
何となく華やかなイメージがある近年のお正月。
しかし本来はしんみりとしたものでした。
そもそもお正月というのは、
歳神様(としがみさま)がご先祖様たちの霊を導いて訪れる。
そして家族と一緒に過ごす。
というものです。
お盆のようなものですね。
なので、もともとのお正月の過ごし方は、
(他の死霊がウロウロしているかも知れないから)
・家長が近所の神社で年籠り(としごもり)をする。
というものでした。
因みにこの年籠りというのは、
大晦日(もしくはそれ以前)から、
家長が近くの神社に篭って、新年まで祈り続ける風習です。
いずれも
「初詣とはまったく違う精神性をもった正月の過ごし方」
であることがわかると思います。
やはり初詣に意味はないのでは…
ここまでのことを踏まえると、
神様や霊魂を信じる立場をとっても、
「初詣は意味ない」
と考える理由、わかってもらえると思います。
もちろん「神も仏も霊魂も存在しない!」という考え方なら、
当然、意味を見出しづらいでしょう。
とはいえ、
初詣という催しやそれを楽しむ人たちを否定したいわけではありません。
「初詣をしたから自分にはご利益がある」と心から信じれば、
本当に良い結果が起きやすくなることもありますしね。
(無意識の力というやつです)
またお守りは心の拠り所になりますし、
人も屋台も多い、あの空間の賑やかを楽しむのも一興でしょう。
「和風のカウントダウンイベント」としても、
なかなかのものです。
楽しみたい人たちは、今まで以上に楽しみ、
行きたくない人たちは、堂々とボイコットしちゃいましょう!